ブログ 文化祭の思い出

文化祭の思い出

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  第31回打越祭第一部文化祭は、天気に恵まれて開催することができ、おかげさまで午後から来場者も増えて、盛況であります。

  開会式でも話しましたが、「打越祭(学園の建っている丘は昔は「打越が丘」と呼ばれ、その古名に拠る)」と称したのは、文化祭毎年開催が始まった昭和55(1980)年が最初で、今年で31回目となるわけです。それまでは、学年ごとに大きなマスコット絵が立てられ、各クラスごとの出し物による仮装行列(上級生になるほどプロはだしで、中華学校に教えを受けた蛇踊りや踊りの師匠に習った松づくし、本格的なフラダンス、腹踊り、竿灯祭り等々・・・は本当に見応えがあり、観客からは感嘆の声が上がったものです)が行われ、さらに、卒業学年である高三は民謡、中3は童謡を全員で踊るというプログラムが恒例になっていて??このようにお祭り的な要素の強かった体育祭は近県でも評判を呼び、毎年行われていたものの、一方、文化祭は文化系クラブの発表中心で、隔年(1年おき)開催だったのです。

  昭和55年当時、私は生徒会の顧問として、生徒諸君の強い要望による文化祭毎年開催への切り替えに立ち会いましたが、その時、9月に総合学園祭として文化祭、体育祭を間を置かずに開催するようになったのが「打越祭」の始まりです。これは、大学入試センター試験の前身の、昭和53年から始められた大学共通一次試験がきっかけとはいえ、学校の進学への気風はまだまだのんびりしたもので、文化祭の前夜は生徒会顧問の先生や実行委員は学校に泊まったり、高三生がクラス参加や有志参加で積極的に関わったりしたものです。そして、文化祭に次第にお祭り的な企画が増えるようになったため、逆に体育祭からは、マスコット、仮装行列、踊りなどといった華やかなお祭り要素をなくしていったのです。

  そこで心に残った文化祭の思い出話を一つ。

  私が初めての高三の担任の時、学年一致で文化祭に参加するというのを、「受験だからほどほどに」と注意したところ、いや、簡単で時間はかからないというのです。確かにベニヤに顔面大の穴をいくつか開けて、観光地の記念写真ボードのように穴の下に体の絵を描いただけ。しかしその後が大変。高三の担任の先生は穴から顔を出せというのです。そして5?6メートル離れたところから、水に濡らしたスポンジを穴から顔を出した先生の顔をめがけてぶつけるという、遊園地の鬼にボールをぶつけるアトラクションの変形。(確か有料で1回三発投げて30円か50円を取って収益は募金したと記憶していますが)これが大評判の長蛇の列。ふだん叱られている先生に合法的に報復ができると生徒たちは大喜び。当該の高三生だけでなく他の学年の生徒や来場の小学生や他校の生徒までが、我々の顔をめがけて「力一杯」スポンジを投げつけるのです。直撃するとたまりません。的にされた先生方も生徒諸君と一緒にそれなりに楽しんだのですが、やはり時間を決めてのゲスト出演にしてもらい、あとは生徒が顔出しをやってくれたのでホッとしました。その時の高三生の諸君も今ではいいオジさん。懐かしい文化祭の思い出であります。