創立者・浅野総一郎
略歴
主な業績の紹介
嘉永元年(1848年)に医師の長男として生れた総一郎は、何度失敗しても諦めずに立ち上がる「九転十起」の精神で、上京した後は神田川沿いでの水売りからはじめ、竹皮商、薪炭商と事業を拡大させ明治6年(1873年)には石炭を取り扱うようになります。さらに、石炭から発生する廃棄物であったコークスとコールタールを買い取り、コークスはセメントを焼く際の燃料として、コールタールは防腐剤や消毒用の石炭酸の原料として販売して利益を上げました。精力的に働き続けた総一郎は渋沢栄一の後押しを得て明治17年(1884年)に官営深川セメント製造所の払い下げを受け、これをもとに浅野セメントを設立させます。その後も、燃料を確保するための炭鉱、エネルギー産業として石油・ガス・水力発電の各事業や、原材料や製品を輸送するための運輸業、そこで使われる船をつくるための造船や、その原料を確保するための製鉄業など、一つひとつの事業を別個に考えるのではなく、「ビジネスモデル」を意識して関連する事業を広く手掛け、現在でも活躍する数多くの企業の創設や経営に関与しました。原材料を確保し、加工生産して販売・輸送するという一連の流れを一か所で実施すること、さらに海外への輸出をも視野に入れて計画された東京湾の埋立工事は総一郎の理想を具体化した仕事とも言えます。総一郎はその生涯で様々な事業に関与しましたが、特にセメント産業を日本に定着させたことから「セメント王」と呼ばれ、鶴見埋築株式会社(現・東亜建設工業株式会社)が実施した東京湾の埋立事業の功績から「京浜工業地帯の父」とも称されます。
総一郎が書いた書
いのらずとても
神やまもらん ~
この書は大正12年(1923年)の元旦に書かれました。手塩にかけた東洋汽船の経営状況の悪化が進む中で、何とか立て直したいという気持ちも込めて書かれたのかもしれません。
かせぐにおいつくびんぼうなし ~
この書が書かれた昭和4年(1929年)は、第一次世界大戦時の好景気の反動や関東大震災などの影響で景気が著しく悪くなっていた時期でもあります。力強い筆遣いからは、厳しい時期だからこそ、より一層の努力が必要だという総一郎の意気込みが感じられます。
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初代校長・水崎基一
略歴
主な業績の紹介
明治4年(1871年)に旧松本藩士の長男として生れた水崎は、父親の転勤により静岡に移り、そこでキリスト教に出会います。静岡メソジスト教会で洗礼を受け、同志社卒業後は教誨師として監獄の改良や囚人の教化善導にキリスト教人道主義の立場から献身的に取り組みました。イギリス留学から帰国すると、東洋汽船で総一郎の秘書として働いた後、同志社に戻り大学認可を得るために奔走します。
大正7年(1918年)に同志社を辞すと、総一郎の依頼を受けてアメリカの教育制度の視察を行いました。シカゴの衛星都市ゲーリー市に滞在した水崎は、都市化と移民の流入による急激な生徒増に対応するための時間割や教室の運用方法、教科担任制などの「ゲーリー・システム」と呼ばれる教育制度や、職業教育や市民教育に重きを置く教育理念を研究しました。
当時の横浜市は、総一郎が手がけた京浜工業地帯の埋立により日本全国から多くの労働者が移住してきており、ゲーリー市とよく似た状況になっていました。また、水崎は当時の日本の中等教育が高等教育進学への準備教育や一般教養を重視する一方、職業教育は専門に分科し過ぎているとして、教養科目と実学教育を同時に行う総合教育が必要だと考えていました。大正9年(1920年)に「実学を身につけた人材の育成」が産業化の進む日本にとって重要な課題だ、と認識していた総一郎が私財を投じて浅野綜合中学校を設立すると、水崎は初代校長に就任し、66歳で死去するまで18年間にわたって校長として学校を導きました。校長職に加えて公民と修身の授業のほか、英文の課外授業や夏休みの合宿、土曜日の晩のバイブル・クラスなど、様々な機会を設けて生徒と過ごす時間も大切にしていました。 水崎は、生徒には「愛」の心をもって接し、「如何なる学生に対しても、人として天地の間に生れ来りたる意義あるを発見」することを目指すべきであり、「我等教育者の任務は…人の心の内より隠れたる宝玉を見出すを以て一世の快事とせねばなるまい」と訴えました。
水崎の思想は、現在の浅野中学校・高等学校の校訓「愛と和」に伝えられています。
また、座学と実習を両立させる「ゲーリー・システム」に基づく時間割や工場実習の授業などは残っていませんが、授業だけでなく学校行事と部活動も重視する浅野中学校・高等学校の教育方針には、様々な体験・経験を通して「知能の啓発のみならず品性を陶冶し芸能を実習し…人として人生の意義を全う」することを目指した浅野綜合中学校設立の趣意が確かに受け継がれています。
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その他歴史写真・動画史料
紫雲閣の写真
東京市芝区(現・東京都港区)に、浅野総一郎が建てた邸宅を「紫雲閣」と言います。日本の伝統的な建築様式を随所に盛り込んだ豪奢な造りで、明治31(1898)年の着工から完成まで10年の歳月を要しました。一部からは「成金趣味の贅沢すぎる豪邸だ」と批判もありました。しかし、この建物は浅野の住居ではなく、日本を訪れる外国からの賓客に、日本の文化や美術を紹介するための迎賓館でした。浅野が経営する東洋汽船の乗客らが招待され、海外でも「浅野の茶会」として有名だったと伝わっています。10万人以上の外国人をもてなしたとも言われますが、戦災で焼け落ちたため、現在には残っていません。
浅野総一郎が書いたその他の書
浅野総一郎は折に触れて筆を取っていました。それは、先に紹介した「かせぐにおいつくびんぼうなし」という言葉や「心だに誠の道にかないなば 祈らずとても 神や守らん」という和歌だけにとどまりません。ここでは、総一郎が遺したその他の書作品をご紹介します。
浅野系の代表的な企業
一代で浅野財閥を築き上げた総一郎は、多種多様の事業を主宰しました。直轄会社としては、浅野セメント・東洋汽船・磐城炭鉱・浅野造船・関東水力・庄川水力・東京湾埋立などがあります。ほかに資本会社としての浅野同族会社を筆頭に、浅野物産・浅野小倉製鋼所・京浜運河・浅野雨竜炭鉱・沖電気・鶴見臨港鉄道・神奈川コークス・大日本鉱業・南武鉄道・五日市鉄道など、関連する企業は70社とも80社とも言われています。
現在まで当時の名前を残す企業は少ないですが、浅野が携わった多くの企業は、いまもなお日本を代表する企業として活躍し続けています。
映像で知る総一郎
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